BBB MAGAZINE

  • MotorCycleDays

    2021.02.17 / vol.90

    「バイクと旅した40年物語」~02~

CREDIT

    • ライター
    • 執筆

    藤原かんいち

    • 撮影

    藤原かんいち

  20歳で中型二輪免許を取得。今年60歳になるのでバイクとの付き合いは40年になります。バイクと旅は僕の世界を広げ、人生を豊かにしてくれました。日本一周、世界一周、そのほとんどを小さな原付バイクで実現しました。
  旅が実現するまでのストーリーや思い出、実際のバイク旅での出来事、さらに40年間の世の中の変化などなど。僕の半生とバイク旅を年代と共に振り返りながら、『バイクと旅した40年物語』として語り綴っていきます。
前回は自転車に熱中していた中高時代、20歳のときに初めて原付バイク乗ったこと、そして九州ツーリングをするまでの話。今回はその続きです。

第2回:夢だった日本一周を250ccバイクで実現

デザインの専門学校ではグラフィックデザインを専攻。授業ではデザイン、レタリング、イラスト、色彩などを学んだ。授業は課題が多く大変だったが、クラスの仲間との付き合いは楽しかった。友人たちといろんな話をしていると、W君がヤマハのRZ50を持っていることがわかった。僕も同じヤマハ、RX50に乗っていることから意気投合。仲良くなった。

初ツーリングで行った顔振峠
W君と初ツーリングで行った顔振峠

W君は高校時代から原付に乗っているというので、いろんなことを教えてもらった。またふたりとも当時、住んでいたのが神奈川県の西部。ツーリング好きという共通点もあったので、よく一緒に出掛けた。奥多摩、秩父、箱根、日光、清里など、日帰りで行けるところはほとんど行った。W君はクールで口数が多いタイプではなかったが、時折、奇想天外な冗談を言って僕を笑わせた。

ヤマハの原付2台
ヤマハの原付2台でいろんなところへ行った
国鉄最高地点
国鉄最高地点へW君とふたりで到着

2年になるとW君が中型二輪を取得、ホンダのVT250に乗り始めた。少し遅れて僕はヤマハRZ250のオーナーになった。本当はヤマハXZ400が欲しかったが、お金がなくてRZになったのだが...(笑)

丁度レーサーレプリカブームが始まったころで、この2台がバイク雑誌で最高速を争っていた。僕はスピードに興味はなかったが、たまたまRZを買ったこと、当時は世界GPや鈴鹿8耐が人気だった影響などを受けて、徐々にスピードにのめり込んでいった。特にコーナーリングが好きで峠走りに熱中していった。

革ツナギにレプリカヘルメットで、早朝の箱根、椿ラインの峠道を攻めまくる。またツーリング先の高速道路ではW君のVTとテールツーノーズのデットヒートを繰り広げ、最高速を競ったこともあった。今考えると本当に危なかった、これはもう完全に若気の至りというやつです(笑)。

ハイスピードで駆け抜ける
峠道のコーナーをハイスピードで駆け抜ける
競うように走り回った
W君とふたりで競うように走り回った

専門学校を卒業して印刷会社に就職してからも、週末になると箱根へ出かけ、峠道のコーナーを攻めていた。そんな日々が1年近く過ぎたある日。箱根に向かいながら突然、ある言葉が舞い降りてきた「本気で走りを極めるのだとしたら、向かうのは箱根じゃなくてサーキットだろ!? ...っいうか、お前が本当にしたいことは旅じゃないの? 日本一周の夢を叶えるんだろ!」目が覚めた僕は、そのままUターン。自宅へ引き返した。

それからすぐに日本一周のために貯金を始めた。思い返すとこれまでは勉強も部活も仕事も中途半端。やることも思い付きと勢いで始めたことがほとんど、お金もあればあるだけ使っていた。そんな僕が唯一誇れることが旅だった。そんなクズ人間の僕が、生まれて初めて定額貯金を始めたのだから、旅の力は底知れない。毎月少しずつお金が貯まり、夢が近づいてくる。ひとつの目標に向かっている充実感。それは生まれて初めて感じる感覚だった。8か月分の貯金、少ないボーナスを受け取ると、日本一周の旅をするために仕事を辞めた。

冬にバイクで箱根へ
雪降る冬にバイクで箱根へ行ったこともあった

RZ250はロングツーリング向きのモデルではないが、そんなことは関係なかった。それからこれまでの旅はほとんどユースホステルに泊まっていたが、日本一周では節約のためにキャンプをしようと決めた。そのために新しくテントと寝袋も買った。いよいよ中学生のころから憧れ続けていた日本一周の旅をついに実現する時が来た。前日は興奮でなかなか眠れなかった。

1984年7月。23歳の夏。家を出るとひたすら北へ向かってバイクを走らせた。37年前のことなのでほとんどのことは忘れてしまったが、初日の夜だけは強烈に覚えている。

想像以上に時間がかかり、宿泊予定の猪苗代湖に着いたときはすでに暗くなっていた。暗闇の中、ヘッドライトの明かりを頼りに湖畔に空地を見つけた。大急ぎでテントを張り、ほっと一息ついた。テントに入り改めて周りを見回すと、遠くに人の影があった。驚いてファスナーを閉めた。こんな場所に人が? ウソだろ?? もしかして幽霊?? ひぇーっ。それから恐怖でテントから出れなくなった。もちろんトイレもひたすら我慢した。ようやく長い夜が明け、恐る恐るファスナーを開けた。人が立っていた場所を見ると、そこには一本の木が立っていた。えっ? なんだ~木だったのか~あははは... ひとりで大笑いした。

北海道へ渡るフェリーはバイクや自転車乗りでいっぱいだった。北海道は旅人たちの聖地。全国各地からいろんな人が集まってきていた。同志であり、どこかライバルのようでもあった。北海道を走り始めると何人ものバイクや自転車とすれ違った。その度にみんなピースサインをしてくる。大きく手を振る人、ステップに立つ人、仮面ライダーの変身のポーズをとる人、個性に溢れていた。

初めて訪れた最北端は想い出に残っている
初めて訪れた最北端は想い出に残っている
サロベツ原野の原生花園から利尻島を望む
サロベツ原野の原生花園から利尻島を望む

大沼の湖畔を歩いていると、フェリーで知り合ったライダーふたりと偶然再会をした。すぐに意気投合、「一緒に走ろう!」と盛り上がる。行き先は洞爺湖、ふたりともテントを持っていたので夜は湖畔で一緒にキャンプ。昨日まで知らなかった同志がひとつの火を囲んでおしゃべりをしている。そんな状況が新鮮で嬉しかった。寝る前に何気なく空を見上げると、驚くほどたくさんの星が輝いていた。

その後も、別の場所で再会したり、別の自転車の旅人とも仲良くなった。そして何より北海道は広かった。どこまでもまっすぐに伸びる道、町を出るとほとんど信号がないので、いつまでも走り続けられる。こんな体験初めて、心から自由を感じた。

最北端の宗谷岬、霧の摩周湖、クッシーの屈斜路湖などを巡り歩く。知床峠を越えて羅臼町をウロウロしていると自転車旅人に「漁師さんの離れに泊っているんだけど、君も来ない?」と声をかけられた。行ってみると世話好きな漁師さんがいて、お金のない旅人をただで泊めてあげているのだという。すでに3人の旅人がお世話になっていて、僕も仲間入りをした。夜は漁師さんが夕食をご馳走してくれ、お酒を呑みながらいろんな話を聞かせてくれた。神奈川の地元にいたら漁師さんの話を直接聞くことはできない、貴重な体験だった。またどこの馬の骨ともわからない人間にこんな風に親切にしてくれる人がいるとは思わなかった。僕もいつかそんなことができる大人になりたいと心から思った。

河口湖
最東端の納沙布岬も行きたかった場所

帯広へ行くと駅前に「カニの家」があった、当時有名な無料宿泊所で大きなテントが二つ張られていた。駐車場にはズラッと大量のバイクが並び、テントの中ではたくさんの旅人が犇めき合っていた。みんな貧乏旅、あまりお風呂に入っていないらしく、かなり臭かった(笑)。狭いながら自分の場所を確保。周りの人の話を聞くと何度も来ているベテラン、長期で日本一周をしている自転車乗り、大学の旅サークルメンバーなど多種多様の旅人がいた。

テントの中は完全に男の世界。○○ユースで可愛い女の子がバイトをしているとか、○○バイクで旅している女子がいるとか、その辺の男のエネルギーも充満していた。僕はその時は硬派を気取っていたが、そんな噂話に耳がダンボになっていた。

楽しかった北海道を離れ本州へ、日本海沿いを南下する。新潟、長野、能登半島、金沢、鳥取砂丘、出雲大社などをめぐる。北海道を出るとは旅人と会う機会は激減したが、出雲日御碕灯台で久しぶりにライダーと出会った。北九州の人で九州へ来たときは家に遊びにおいでと言ってくれた。言葉に甘えて2日後に行くと、笑顔で迎えてくれた。

夕方、ラーメン屋へ行こうとなった。店に入りラーメンを注文をすると、なぜか「とんこつラーメン」が出てきた。醤油ラーメンが出てくると思ったのでビックリ。「九州は普通ラーメンと言ったらとんこつだよ! 醤油ラーメン?あまり食べたことないな!」と笑った。土地が変われば普通かも変わる、これが旅。まさにそれを実感した瞬間だった。

3年ぶりの九州、長崎では文通をしていた女の子と再会、去年車の免許を取ったことから彼女の運転で市内を観光した。オランダ坂やグラバー園、夜景の見える展望台などをめぐった。まさに遠い青春時代の思い出。いま彼女はどこで何をしているんだろう? 連絡先もわからない。それから大好きな阿蘇を走り、その後は高千穂峡へ。さらに最南端の佐多岬も再訪した。

九州の最南端・佐多岬
九州の最南端・佐多岬は2度目の訪問となった

その後四国を一周。日記などの詳しい記録はなく写真しか残っていないが、倉敷、姫路城、神戸、潮岬などをめぐったことはわかった。その後に訪れた木曽路でひとつ印象的なことがあった。当時はコンビニがなかったので、菓子パンやカップ麺を買える場所といえばスーパーか商店だけあった。

ある商店に入りカップ焼きそばを買った。その場で食べたいと思いお店番の女性に「お湯いただけますか?」と尋ねると「いいわよ、今からお湯沸かしてあげるね」と親切にいってくれた。しばらくすると湯切りをしてソースまで絡めた、カップ焼きそば持ってきてくれた。まさかそこまでしてくれるとは思わなかったので、感動するほど嬉しかった。その時のことは今でもよく覚えている。

駅にもよく行った。ここは最西端の平戸口駅
駅にもよく行った。ここは最西端の平戸口駅
倉敷の町並みの美しさはいまも変わらない
倉敷の町並みの美しさはいまも変わらない

日本が元気で、思いやりがあった昭和の時代。旅での一つ一つの出来事が、いま振り返ると宝物のような時間だった。日本一周の写真を収めたアルバムがあるのだが、その最後のページには下手くそな手書き文字で、こんな言葉が書かれていた。


遊びでも仕事でもない
僕にとって、もっともっと大切なこと
今自分が本当にやってみたいこと
それが日本一周だった
雨に打たれ夜中までねぐらを探し走った日
あまりの暑さに体調を崩した日もあった
それでも目的があった
日本一周という目的があった
僕はこの4文字に向かって
47日間という日々を費やした
もしかして23年生きてきた中で
この47日間が
僕が一番輝いていた時かもしれない

昭和59年8月16日
日本一周達成
走行距離12940km


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