BBB MAGAZINE

  • MotorCycleDays

    2022.02.10 / vol.101

    まさかの故障、嬉しい再会、ふたり旅は続く~13~

CREDIT

    • ライター
    • 執筆

    藤原かんいち

    • 撮影

    藤原かんいち

  20歳のとき中型二輪免許を取得。今年60歳なのでバイクとの付き合いは40年になる。4度の日本一周、2度の世界一周など、そのほとんどの旅を小さな原付バイクで実現してきた。バイクと旅は僕の世界を広げ、間違いなく人生を豊かにしてくれた。
  これまでの旅が実現するまでのストーリーや思い出、実際のバイク旅での出来事、さらに40年間の世の中の変化など。僕の半生とバイク旅を年代と共に振り返りながら、『バイクと旅した40年物語』として語り綴っていきます。

  25歳から始まった原付世界5大陸の旅。その第二弾がホンダゴリラによる世界一周の旅。11カ月をかけてアフリカ大陸を旅したあと、湾岸戦争の影響から予定外の一時帰国。次のヨーロッパ一周は、バイク初心者ヒロコがフランスのパリでダックス70を購入。ゴリラとダックスの珍道中が始まった。フランス、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、デンマーク、ノルウェイと北上。ついにヨーロッパ最北端のノールカップに到着した。今回はそのつづき。

第13回:まさかの故障、嬉しい再会、ふたり旅は続く

最北端ノールカップを出ると、必然的に南下の旅が始まる。国境を越えてフィンランド最初の町カリガスニエミへ。雨模様なのでユースホステルへチェックインした。夕食の買い出しから戻ってくると、キッチンに別の客の荷物がどっさり置いてあった。箱をよく見ると「濃口醤油」「ちりめんじゃこ」の文字が。どいういうこと、こんな僻地に日本人観光客? いやまさかと思っていたら、日本人家族が現れた。

九州出身の恒成さんご夫婦と小学生の女の子がふたり。ドイツで車を買い2カ月間かけてヨーロッパ旅行をしているという。父親である哲三郎さんは23年前に自転車によるヨーロッパ旅行を経験。「その時、いつか家族ができたら、みんなを連れてノールカップへ来ようと思っていたんだ」と話してくれた。同じようなことを考える人はたくさんいると思うが、実現させる人はひと握り。その行動力に脱帽する。夜は恒成さんの手作り日本食をいただき、さらにヒロコと夫婦はビールで宴会(僕は下戸なので不参加)。日本人と飲むのは久しぶりなのでうれしそうだ。恒成さんのお陰で最高の夜となった。

翌朝。お土産にインスタントラーメンや鰹節、わさびなどをいただく、そして最後にみんなで記念写真。日本へ帰ったらいつか遊びに行きますと約束して、それぞれの方向へ旅立った。ところがその日の夕方。イナリという町のスーパーで偶然にもカブ90で旅をしている日本人旅行者に出会った、まさか2日連続で日本人に会うとは驚きだ。その日はそのまま一緒にキャンプをすることにした。立花さんはインドからカブで走ってきたというので、お互いの情報を交換。さらに体験談を聞いたり、ごはんを作って一緒に食べたり大いに盛り上がった。ヒロコは連夜の宴会で上機嫌。日本人と日本語を思い切り話したことは、とてもいい気分転換になった。

恒成ファミリー
フィンランドで出会った恒成ファミリー。この12年後に九州の大分で再会を果たした

フィンランドを南下。景色はひたすら森が続いた。南に向かっているはずなのに気温は上がらず、特にキャンプの朝は8月だというのに凍えるほど寒かった。それなのに蚊の量は半端なく多い。体が大きくデニムの上からでも刺してくるのだから強烈だ。テントを張るときや、寝るときは毎日蚊と格闘。マラリアにはならないけど、痒さは半端ないので必死につぶしまくった。もうひとつ難点は物価高。1.5リットルのコカ・コーラが約1000円。ポテトチップが500円もするのだからたまらない。外食など夢のまた夢。北欧では毎日毎食、自炊の日々が続いた。

「あれ?」「まさか」「うーんやっぱり駄目か!」ついにゴリラのエンジンが動かなくなった。数日前から調子が悪くスピードが出なくなっていたゴリラ。宿に連泊してプラグを点検したりキャブを掃除したり、自分なりに色々やってみたが直らず。仕方がなく宿を出てゆっくりゆっくり、だましながら走っていたが、ついにエンスト。このまま旅は終わるのか、悪い想像が頭をよぎる。

どちらにしても自分の手には負えないので、何とかしてバイク屋のあるタンペレまで行かなくては。しかし、どうやって50㎞移動するか? そこでヒロコのダックスに牽引してもらおうと閃いた。「牽引なんて、ムリムリ!」と首を横に振るヒロコを何とか説き伏せ、ロープを繋いだ。走り始めると徐々に慣れ、それなりに走れるようになった。それでも50㎞の道程は果てしなく遠かった。

ようやくタンペレの町に入ると、今度は市民の注目の的に。赤面しながら進んで行く。そんな中、何とかバイク屋にたどり着いた。メカニックはポイントをいくつかチェックしただけで、すぐに点火ポイントのずれだと原因を突き止めた。さすがプロは違う。1時間もかからずゴリラは復活。エンジンがかかった瞬間は飛び上がりそうなほど嬉しかった。よしヒロコ、スウェーデンへ行くぞ~!

まさかの牽引
動かなくなったゴリラをダックスに牽引をしてもらいバイク屋を目指した。まさかこんなことになるとは...夢にも思わなかった
メカニックすごい
バイク屋へ行くと診断の結果、点火タイミングのズレと判明した。その後、メカニックがまるで魔法のように直してくれた

トゥルクからフェリーに乗り、スウェーデンの首都ストックホルムへ渡った。中央郵便局へ行くとヒロコの友だちや家族から手紙と小包みが届いていた。ヒロコはニコニコ嬉しそう。僕もアフリカの大使館や郵便局でヒロコからの小包を受け取り、嬉しかったことを思い出す。大自然の景色の中をずっと走っていたので、久しぶりの大都会の景色が眩しかった。

ストックホルムを出てスウェーデンの南部へ向かう。森林は姿を消し大規模な開拓農地がどこまでも広がっている。北欧の3か国を旅してきたが、ノルウェイは岩山とフィヨルド、フィンランドは森林と湖、スウェーデンは畑という印象になった。スウェーデンは先進国だと思っていたが、ガソリンスタンドが無人の自動販売機スタイルになっていたのには驚いた。給油機にお金の投入口があり、入れた金額分だけ入れられるようになっているのだ。今では日本でも普通だが、スウェーデンは30年前にすでに始めていたのだから、レベルが違う。

4時間の船旅を終えて、ドイツ・ロストクに到着した。ベルリンの壁崩壊から2年。東西は統一されたが、元東ドイツだったロストクの町は、少し貧しそうで古い建物が多かった。キャンプ場の案内標識に沿って進んで行くと、教会を中心に古い建物が並ぶ小さな集落に着いた。畑ではクワを使って穀物をトラックに積み込んでいる。最新のトラクターを使っていたスウェーデンとは大きな違いだ。

ベルリンではキャンプ場に宿泊して、町中は地下鉄で移動した。地下鉄で驚いたのは改札口がないこと、「簡単にキセルできるじゃん」と思ったが、ちゃんと切符を買った。ベルリンの壁は跡形もなく消えていて、近くで壁のかけらをお土産で売っている人がいた。時代の流れは急激で、ベルリンの町は工事車両だらけ。ベルリンの町が大きく変わって行く途中であることが伝わってくる。大使館でポーランドとチェコスロバキアのビザを取得するとポーランドへ向かった。

初めての東ヨーロッパ、ポーランド入国はかなり緊張したが、入国手続きは簡単で、バイクから降りることなく終わってしまった。町の両替所へ行き100マルク(当時のドイツ通貨)をポーランド通貨(ズオッティ)に両替すると、0がずらっと並んだ紙幣が戻ってきた。総額64万5千ズオッティ。あまりにすごい枚数と単位なので価値がよくわからない。

初日、ホテルを探していると親切なバイクカップルが声をかけてくれ、ホテルまで案内してくれた。しかしとても高そうなホテル...泊まれるとは思えないが、一応値段を聞いてみることにした。1泊12万ズオッティ。んっ? めまいがする数字だが、計算してみると、な・ななんと日本円にして1千5百円。そんな値段で泊まれるの!? 何度計算しても同じ、すぐに泊まることにした。レストランに入ると肉料理、スープ、サラダにコーラを付けて2人分で約600円とウソのような値段だった。北欧の節約旅行から一転、ホテル泊まりに外食の豪華旅行になった。

ポーランドは中世を思わせる古い建物が多かった。古いものを大切に使っていることが伝わってくる。また民家の庭でニワトリが鳴いていたり、洗濯物がずらっと干してあったり、バイクで走りながら人々の生活感が伝わってくる。人々は素朴で親切。ホテルの前で出発の準備をしていると地元の子供たちが嬉しそうに集まってきたり、僕たちの荷物を運びを手伝ってくれる子供もいた。人々が助け合いながら暮らしていることがよくわかった。

 素朴なポーランド
素朴なポーランド。日本では見たことがない、クラシカルなバイクが走っていた。同じバイク乗り、言葉は通じないけど心は通じた

チェコスロバキア入国はこれまでにないスタイルだった。入国ゲートが開くと車両が一列に並び、係官が1台ずつ厳しくチェックして行く。ニコリともしない、厳しい表情の係官に緊張が走る。僕たちが日本から来た旅行者だとわかると一気に場が和み、係官の表情が緩やかになった。その顔を見て僕たちもようやく笑顔になった。

事前の情報でガソリン購入はクーポン制と聞いていたので、銀行へ行き10リットル分のクーポンを購入した。ところが、ガソリンスタンドへ行くとみんな現金で払っている、おかしいな?と思つつ現金を差し出すと、普通に払えてしまった。なんだ、不要なのか!と思ったら、3軒目のスタンドでは支払いはクーポン!と拒否される。なんだかよくわからない制度だった。

首都プラハに会いたい人がいた。フィンランドのキャンプ場で出会い、仲良くなったスバンダさん夫婦だ。チェコスロバキアからフィンランドへ旅行にきていて、プラハに来たら家に遊びに来てね、と言われていたのだ。スバンダさんが描いてくれたメモと地図を頼りに、住所の集合住宅にたどり着いた。いるかな? ドキドキしながらベルを鳴らすとアンナおばさんが上階の窓から大きく手を振り、出迎えてくれた。感動の再会となった。

ふたりの言葉に甘えて2泊させてもらうことになった。1日はプラハの街を観光。夜はアンナおばさんの手料理をご馳走になった。日本人の主食がお米と言っていたので、わざわざ白ごはんを炊いてくれた。心遣いが嬉しい。チェコスロバキアは92年の民主化に向けて急速に変化、物価は急上昇で公共交通費は2倍に跳ね上がったという。92年からは無料だった学費も有料化。「激変しているのに、給料はほとんど上がらないんだ」と嘆いた。民主化になったら万歳!とはいかないようだ。ふたりはいつか日本を旅行してみたいと言うので、次は僕たちが日本でおもてなしをしたい。

思い出のスバンダ
スバンダ夫婦のお世話になった。旅先で出会い、住所交換をして実際に自宅を訪ねたのは初めて(ヨーロッパでは)。いい思い出として今でも心に残っている
プラハの建物
プラハの旧市街広場には色彩鮮やかなバロック建築、ゴシック様式の教会、1 時間ごとにからくりが動き出す中世時代の天文時計などがある
現役馬車
チェコスロバキアの田舎では馬車が現役で活躍していた。中世のヨーロッパを思わせる景色に思わずバイクを止めた

チェコスロバキア出国の日。国境近くまで来たが使い切れない現金が1000コロナも残っていた。再両替はできないのでここで使い切るしかない。スーパーに入ってみたが、品ぞろえが少なく欲しいものが全くない。悩んだ末、僕がソックス、ヒロコがメモ帳を買ったがまだまだ残っている。そこで何かおいしいものを食べようということになり、高級レストランへ入った。メニューで高い料理を2つ注文。現地語なので賭けだが、ひとつ目は大皿に山盛りの肉ポテトサラダ。もう一つは全長30cm近くある巨大な揚げ魚が出てきた。おいしそうだけど量が半端ない。食い意地の張った僕たちだが、見た瞬間食べきれないと思った。頑張って食べたが、結局半分食べるのがやっとだった。

再びドイツ。南部には日本でも有名な観光ルート「ロマンチック街道」がある。全長約350㎞の街道には中世の面影を残す街並み、美しい古城や教会が点在。着いたローテンブルグは城壁が囲む石畳の旧市街はまるで童話の世界のよう。雨の中、たどり着いたユースホステル。ほっとしたのは束の間、何と26歳以上は宿泊できないと言われてしまった(僕たちは30歳)。ガーン! ウソだろ。再び雨の中へ逆戻り。宿を探すがどこも高い、数軒回ってようやく泊まれる宿に着いたときは夜9時を回っていた。町はロマンチックなのに気持ちはブルーだった。翌日、気分を変えてローテンブルグを観光。町並みは美しいのだが、右を見ても左を見ても日本人観光客だらけ。何だかなーという感じだった。

ローテンブルグの街並み
ローテンブルグにはおとぎ話に出てきそうな、歴史を感じる美しい街並みが残っていた。どこから写真を撮っても絵になるのが嬉しい

オーストリアはキャンプ場で1泊しただけで、スイスへ。ヨーロッパでは特に楽しみにしていた国なので自然とテンションが上がる。スイスに入ると道幅が狭くなり、信号も増えた。さらに木造の家があったり、四方を山に囲まれているからか、日本の景色に少し似ていた。まさかスイスに来て、日本を思い出すとは意外だった。ベルナーオーバーラントに入ると四千m級のアルプスの山々が目の前に、さらに標高を上げると、青く光る氷河が見えてくる。大自然の大きさに圧倒される。こんな景色は日本では絶対に見られない、しっかり脳裏に焼き付けた。

アルプス観光の中心地、インターラーケンに到着。宿に荷物を降ろして町を散策。すると町の一角に「うどん・そば」の文字。どうやら日本レストランのようだ。たまらず暖簾をくぐり、テーブルに着きメニューを見ると、かけうどんがなんと1000円。高い、高すぎる!と思いながらも、後に引けないので注文する。ところが出てきたうどんは麺がふにゃふにゃ、メチャクチャまずい。ヒロコとふたりで「観光客相手に、詐欺だ~」と目をしかめた。まずいうどんをすすりながら、ポーランドやチェコスロバキアで食べた豪華な食事を思い出す。あの頃はよかったな~。その後も氷河に触れてみたり、岩の間を流れる滝を見学したり、アルプスが眺められるテーブルでランチを食べたり、僕たちなりにスイス観光を堪能した。

町を出てスステン峠へ向かう。登っている途中、減っていたリアスプロケットが突然空回り、登らなくなってしまった。交換の時期をのびのびにしていたが、ついに寿命らしい。交換部品は携帯しているので、路肩にバイクを停めて前後スプロケットとチェーンを交換。その後は見違えるほど動きはスムーズになり、あっという間に峠に到着した。

ウツクシ2トップ
ヨーロッパの美しい景色が見られる国と言えば、ノルウェイとスイスが2トップ。当時はフィルムカメラを使っていたが、この写真は露出が合っていないのが悔しい

リヒテンシュタインを経由して再びオーストリアへ入国。10月に入ると朝晩の冷え込みがきつくなり、キャンプが少しずつ辛くなってきた。オーストリアもスイスと同じような山々に囲まれた景色が多く、国道沿いにはホテルやガストフなどの宿泊施設が多かった。違うのは町ごとにお城のような建物があること。気になるので道を外れて城へ行ってみるとビックリ個人宅だった。お城に住むのってどんな気分だろう? スケールの違いを感じた。

首都ウィーンではキャンプ場に宿泊。ヨーロッパは大都市にキャンプ場があるのがありがたい。きれいに区画整備されたキャンプ場で施設も充実、ガス台とテーブルのあるダイニングまである。難点は人が多いこと、夜キッチンへ行ってみるとアジア人の団体が占領、身動きが取れない状態になっていた。

昼、地下鉄を乗り継いでウィーン市内にあるハンガリー大使館を訪ね、ビザを取得する。続けてブルガリア大使館へ行くが冷たい対応で、英語も通じない。手続きが複雑でよく分からないうえ、宿泊証明(バウチャー)が必要だという。市内の旅行会社へ行き相談するが、証明書ができるまで3~4日かかると言われてしまった。そんなに時間は使えない、困った。ブルガリア行きは諦めようか...ふたりで落ち込んだ。

ところが、翌日再チャレンジすると、受付が別の人に変わっていてとんとん拍子に進み、即ビザ発行された。こんなこともあるのか、キツネにつままれた気分だ。最後にルーマニア大使館へ行くと館内は大混雑、人が折り重なり騒いでいる。ビザ担当者は早口で何を言っているか全くわからない。これは大変そうだと覚悟した。ところが僕たちが日本人だとわかると、書類申請も写真も手数料もなし。あっという間にビザが取得できた。

これで目的の東欧3か国のビザが揃った。大使館の休日などが重なり、取得するのに1週間もかかったが、これでこの先のルートは決まった。ハンガリー→ルーマニア→ブルガリア→トルコに決定。これまでの西ヨーロッパとは違う景色が見られるはず。また、ヨーロッパとアジアの交差点、トルコのイスタンブールへも行く予定。期待はますます膨らんで行くのであった。

旅に洗濯はつきもの
雄大なアルプスの山々、緑の草原、とにかく景色が素晴らしかったオーストリアのキャンプ場。キャンプは生活の一部、こんな場所でも洗濯は忘れない

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