BBB MAGAZINE

  • 藤原かんいち電動バイク世界一周 夢大陸オーストラリア編

    2008.11.06 / Vol.01

    「膨らむ地平線への思い」

CREDIT

    • ライター
    • 執筆

    藤原かんいち

    • 撮影

    藤原かんいち

    • バイク

    モトラ

VOL.01 「膨らむ地平線への思い」[夢大陸オーストラリア - 番外編 -]

1985年夏。北海道。
昨年の日本一周で訪れた、北海道の雄大な風景がどうしても忘れられず、僕は「北海道が待っている!」と社長の机に辞表を叩きつけ、再び北海道の大地を目指した。

北海道のオフロードを求めてひたすら走り続ける旅だった

この旅の目的は日本一周では走れなかった林道やダートを、可能な限り走りまくることだった。この旅ために日本一周の相棒だったヤマハRZ250を下取りに出し、新たにホンダのオフロードバイクXL250Sを購入した。当時の北海道は国道にもダートが多く残っていて、さらに自然の奥へ深くへ分け入りたいと思うと、どうしてもオフロードバイクが必要だった。

林道以外で楽しみにしていたのは「360度の地平線が見える!」がキャッチフレーズの展望台、開陽台。一生に一度でいいから地平線の中を走ってみたいと思っていた僕は、期待に胸膨らませ、意気揚々と開陽台へ向かった。
展望台に駆け上がると...果てしない大平原が広がっていた。まさに「デッカイドー北海道!」(古~い、笑)。展望台から見る風景は日本離れしていて、ため息が出るほど雄大だった、だが、何かが違っていた。展望は開けているが地平線らしきものが見えるのは一方だけで、もう一方は小高い山が連なっているではないか。これで360度の地平線と言えるのか!?

「...何かが違う!」

何かが違うは他にもあった。それは大自然を走る林道。かなり奥地へ行っても電柱があったり、コンクリート壁があったり、エロ本が落ちていたり...。人間が作った道の上なのだから仕方がないが、それらの人工物が気になるのである。最も大自然が残されているといわれる北海道でさえこれなのだ。本物の大自然の中を走ることはできないのか?
大自然を満喫する旅という意味では、確かに70%は満足できた。しかし30%はどこか不満。欲求不満を抱えたまま帰宅となった。
そのとき僕は日本では納まりきれなくなっていたのだと思う。そして確信した、僕が求めているのは開陽台のように眺める地平線ではなく、360度の地平線をバイクで激走する、そんな体が震えるような興奮だったのだ
そして僕は大きな分岐点に立たされた、それはこのまま70%で満足するのか?それともさらに30%を追い求めて、海外へ飛び出すのか?

84年ヤマハRZ250で日本一周。最北端宗谷岬にて記念撮影

北海道の旅を終えるまで、僕は海外をバイクで走ることは想像すらできなかった。夢のまた夢の遠い世界の話と思いこんでいた。しかし、海外を旅した人の本や雑誌記事を読みあさっているうちに、自信を喪失するどころか、その夢は無限大に膨らんでいった。
次第に海外ツーリングに出なくては、自分が生きている意味さえないんじゃないか、と思い詰めるくらいに海外ツーリングの世界へのめり込んでいった。

僕にとって海外を走ることは、桁外れの大自然が体験できること、そして360度の地平線を走ることだった。そうなると行き先は自ずと限られてくる。広い国といえば、やっぱりアメリカかオーストラリアだろう。
そんなとき、本屋で「どこだって野宿ライダー」(寺崎勉著)という書との運命的な出会いがあった。それはオーストラリアのアウトバック(荒野)をオフロードバイクで駆け抜けた旅行記で、その内容は僕の冒険心に火を付けた。
その本には雄大な大自然の中をバイクで旅する日々が綴られていた。果てしなく続く砂漠、熱帯ジャングル、野生動物、オージーとの出会いなど、僕の心を強く引きつけるモノばかりだった。
「おおおっ、求めていた旅は、これだ!」
と確信。そして僕はオーストラリア行きを固く決心したのである。

出発は89年と決めた。

どこまでも続く地平線。夢は膨らむばかりだ

それから3年で資金を貯める計画を立て、出発は89年と決めた。
この準備期間に苦手の英語を克服しようと思い、一応、英会話集を購入した。小学生でローマ字につまずいて以来、英語の通信簿はいつも下の下だった。アルファベット開くだけで鳥肌が立っような男がオーストラリアへ行こう、というのだから呆れ返る。時折、本を開いてみるが、気持ちはすでにオーストラリア、英会話だけは思うようにはかどらなかった。

そしてバイクは当初250ccのオフロードバイクと考えていたが、徐々に人と同じやり方ではつまらない、と思うようになっていた。オフロードバイクでやっている人がすでに存在しているので、恐らく僕にもできるだろう。元来のへそ曲がりなところも手伝ってか、先が読める確実な旅よりも、できるかどうか分からない旅の方が自分もワクワクできるし、やりがいがあるじゃないかと考えるようになっていた。
そこで、いっそのこと原付バイクで挑戦してやろう、と考えた。原付バイクならやった人もいないだろうし(いたとしても少数派)、これなら果たしてできるのかどうか分からない。やってみる価値がありそうだ。

これは実は以前から頭の片隅にあったアイデアだったが、それを最終的に決心させたのは、車の流れについていけない原付バイクと社会の流れにうまくついていけない、不器用な自分とオーバーラップして見えたことだった。
社会から疎外感を感じていた僕の存在が、力のない原付バイクと同じ存在に思えたのだ。そんな吹けば飛ぶような小さな同士が力を合わせたら、他人にはできないことができるんじゃないか?そんな思いが沸き上がってきたのだ。いや、絶対にできる。僕と原付バイクの可能性をこの旅で証明するのだ。原付バイクでオーストラリア一周...最高に夢があるじゃないか。
この時の僕の目は恐らく大リーグボール1号を投げる前の星飛馬のように、闘志でメラメラと燃え上がっていたに違いない。

原付バイクにした理由

原付バイクにした理由は他にもあった。それは僕は学生時代、自転車ツーリングにハマっていたのだが、バイクの旅は達成感が薄いということだった。手首を捻るだけでどこまでも走れてしまうバイクの機動力は確かに素晴らしいが、どこか物足りなさを感じるのも事実だった。そこで小さな原付バイクでエッチラコッチラと時間をかけて進んで行けば、もしかしたら大きな達成感が得られるんじゃないかとという考えがあったのだ。
もうひとつは原付バイクのスピードだった。時速30~40kmならば周りの景色を楽しみながら走ることができる。歩いている人の表情も手に取るように分かると考えたのだ。これがもし大型バイクだったら、スピードコントロールするのが精一杯で、周りの景色を見る余裕もないだろう。これではせっかくの旅が点から点への、薄っぺらな旅になってしまう。そんな気持ちもあった。
こんな風にして、僕のはじめての「海外ツーリング」の輪郭が、徐々に出来上がっていった。

自分の「夢」と「目標」

ビンボー旅だったので、時には無人駅で野宿

僕がこの旅の計画を始めて何より驚いたのは、これまではお金はあればあるだけ使う人間だった僕が、資金を貯めるため定額預金を始め、節約のため一本の缶ジュースさえ我慢できるようになったことだった。
それもこれも全て自分の「夢」と「目標」を実現させるため。それにしても人間は変わば変わるものだな、と我ながら思った。そして目標があるということが、これほど充実感があり、楽しいものだということを初めて知った。
そんな努力のかいがあってか、予定の半分の期間で資金を貯めることができた。そしてバイクは色々迷った結果、ホンダのモトラに決めた。キャリアが大きく荷物がたくさん積めること、カブ系の丈夫なエンジンというのが選んだ理由だった。

そして最後に残された大きな仕事が、両親へこの旅の計画を告げることだった。
元々僕の両親はバイクに乗ることに理解を示していなかった。そこで今回は行き先は海外、さらに期間は半年ときている。それはもう両親からみたら想像を絶する、理解不能な行動に違いなく、猛反対を受けるのは火をみるより明らかだった。
それだけにこの話をするのは気が重かった。だが面倒だからといって両親に黙って出発することはできない。ある日、意を決して計画を話し始めると...。
「何のためにそんなことをするんだ?」
「そんなことをする必要があるのか?」
「バイクなんて休みの日に乗ってれば十分だろ」etc。

「気をつけて行っておいで」

次から次へ、否定される言葉をズラズラと並べられてしまった。僕の父親は十代の頃から大工一筋、仕事一番で生きてきた男。職人気質というのか...絵に描いたような頑固オヤジなのである。
しかし、始めからこれでは話にもならない。どうして分かってくれないんだと頭を抱えた。ここで両親が反対するから止めてしまう人がいるかのもしれない、だが僕は自分が納得できない限りやめる気はなかった。自分のことは自分の意志で決めたいのだ。ここで止めたら、一生後悔するだろう
最終的には、自分で稼いだお金で行くから、両親には絶対迷惑かけない、自分の大きな夢だから実現させて欲しい。これをひたすら言い続け、父親宛に手紙も書いた。生まれて初めての手紙だ。
その結果、この頑固息子はどうにもならなんな...と父は諦め、最後は「気をつけて行っておいで」と渋々承諾してくれた。

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